結局、私達はどのような存在か?

「私が何であるかは、私が何を生産するのか、どの様に生産するのかと同じである。」

カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス著「ドイツイデオロギー」によると、「彼らがなんであるかは、彼らの生産と、すなわちかれらが何を生産するのか、また、いかに生産するのかと一致する。したがって、諸個人が何であるかは、かれらの生産の物質的諸条件に依存する。」 

 

頭の良い人たちの書き方は難しいです。
もう少し噛み砕いていうと、「私が何であるかは、私が何を生産するのか、どの様に生産するのかと同じである。」もっと卑近に言えば、「農産物を土地を耕して生産するのは、農家である。」という様なことです。

 

さてこれを自分に置き換えて書いてみましょう。
私の場合は、「私は、相談者を取り巻く「構造」=環境を、リスクマネジメントのための補助線として提示する、コンサルタントである。」というのと、「私は、ネットワークや人、業務システムという「構造」によってITリスクを制御しようとする、創造的SEである。」という二面性を持っています。

 

これは家庭での自分とか、その場面場面で異なる定義=「役割」が成立することを意味しています。すなわち、「その人が何であるかは、環境としての「構造」に依存する「役割」」なのです。

 

家庭、仕事、地域など環境というのは複数あります。
それぞれ俯瞰しながら人は自分という「役割」を生きています。
俯瞰するためには「境界」が必要です。
「境界」とは、自分の属する世界観のことです。

 

ですから世界観が違うところに放り投げ入れられてしまうと全体が俯瞰できず、自分の「役割」を決められないので、戸惑うしかありません。
“ここはどこ?私は誰?“というのは、境界設定がわからず自分がどの様な「役割」なのかがわからない状況をさしています。
まるっきりそのままですね。

 

こうなると閉じこもるか、ずっと戸惑うしかないわけです。
おすすめは当然「ずっと戸惑って観察してろ」な訳ですが、人間弱い存在です。環境が変わったことで戸惑いに耐えきれず、退却する。
これが引きこもりでしょう。

 

「環境が理解できない=環境設定が今の自分にできない」場合は、環境を自分で規定するにはミニマムな領域に「引きこもる」しか無い訳で、生産的でも望ましい訳でもありません。

 

結局私たちは「環境に翻弄されながら、その時々に境界を設定し、役割を生きる」存在なのだと思います。

 

あなたが自分に規定している環境と、その境界線はどこにあるのでしょうか?

 

一度時間をとって考えてみてください。
環境は強制的に境界を変更してきます。
今の自分の境界を確認することは、決して無駄では無いと思うのです。

 

 

 

 

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